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飯田よしき鎌倉市民会議

安保法制違憲・国家賠償請求事件・飯田よしき意見陳述

飯田よしき意見陳述

2017年3月3日(金)午前10時30分から、東京地裁103号法廷で開かれた国家賠償請求訴訟の第3回口頭弁論の内、飯田よしきの意見陳述を紹介します。


 私は去年5月まで NHK で報道記者として働いていました。「チーフプロデューサー」という肩書きでニュース制作の現場の管理職を務めていました。番組としては「ニュース7」、「おはよう日本」といったニュース番組の制作、「BSニュース」では編集責任者も務め、最後は「首都圏放送センター」のニュース制作に関わりました。一昨年、安倍内閣が集団的自衛権を容認し、安保法制の成立を強行させたことが、私の運命を変えました。

 私の父母はともに昭和9年生まれです。父は東京で東京大空襲に遭い家を失い、母は戦時中は山形市内に疎開するなど、戦争の被害を受けました。異なる地で敗戦を迎えた両親ですが、2人が共通して体験したのは教科書の墨塗りでした。きのうまで「天皇陛下は神様だ」「最後は日本軍に神風が吹く」と教えていた教師が、何の謝罪も釈明もせず「昨日まで教えていたことは誤りだった」と言って教科書の記述を次々と墨で潰させたといいます。軍国主義に染められた子どもたちは、それまでの価値観を全面的に否定され、天皇以下、教師に至るまでの大人たちに対する不信感を抱かざるを得ない衝撃的な体験だったと何度も聞かされました。そんな両親にとって「民主主義」は新鮮で理想的な価値観であり、日本国憲法の「平和主義」の理念は戦争体験者としてとても腑に落ちるものだったのでしょう。親からは「民主主義」や「平和主義」の大切さを教えられ、かけがえのない価値観として吸収し成長しました。大学の法学部に学ぶ中で、自分自身でこの価値観を見直す機会がありましたが、この理念はますます私の揺るぎない確信となりました。やがて87年4月にNHKに記者として就職しました。「憲法の精神が行政、立法、司法の場でどのように実現されているのか、何より国民が憲法の恩恵を享受しているのか、すべてこの目で見てやろう!」というのが大きな動機でした。また、おかしいと感じた事を指摘するのがジャーナリストの使命であり、権力には屈しないというのが仕事上での信条でした。しかし、私の人生に予期せぬ事態をもたらしたのが安保関連法案でした。

 そもそも公共放送たる NHK の報道は、不偏不党・公正中立の立場を守り、情報の送り手の主観的な判断を交えず客観報道に徹することが原則です。余計な論評を一切しないのは“行政府も立法府も民主主義が貫かれている”からであり、ありのままを客観的に報道することこそ、重要だと考えるからです。しかしながら安保関連法の成立は、あれほど憲法違反だという指摘を受けながら、審議も尽くされず、数の横暴による「多数決」により成立させられたのです。他方、ジャーナリズムに対して政府・与党からのあからさまな圧力が相次ぎました。テレビ朝日のコメンテーターへの批判、TBSの放送内容に対する非難、沖縄の地方紙に対する暴言、さらには電波管理法に基づくテレビ局の免許更新をちらつかせ政府批判の報道の自粛を迫るかのような総務大臣発言。NHK 前会長が就任記者会見で「政府が右というものを左とは言えない」という発言も、その流れを象徴するものでした。

 徹頭徹尾、民主主義と平和主義を生かしたいと選んだ仕事が、この安保法制法の成立という決定的な出来事でその存在基盤を失いました。私はこれ以上今の報道体制に従事していくことはできなくなったのです。私がぼんやりと想像していた穏やかな人生の流れは、安保法制という大きな波によって流れを変えられました。民主主義の危機を目の当たりにして、家庭にいても職場にいてもまるで大波に飲み込まれて息が詰まるような毎日が始まりました。そして、昨年5月に依願退職を余儀なくされたのです。最早「政府を信じ、国会を信じ、この国の民主主義を信じよう」と無責任に口にすることができなくなったからです。戦後日本に構築された民主主義が目の前で破壊されているときに、この破壊行為に疑問を呈することすら「不偏不党」の大義名分の下では慎重に検討せざるを得ない職場で、できることは限られています。

 私は、残り数年の安泰なサラリーマン人生と、自分の信念を曲げてまで仕事を続けることとの苦しい選択でしたが答えは明瞭でした。この社会の中で私自身はとても小さな存在に過ぎませんが、この濁流から孤独でも一人で抜け出さなければ自分の信念を貫き通すことはできないと思いました。民主主義社会に落とされた影が漆黒の闇に変わる前に、NHK という寄らば大樹を失おうとも職場の仲間との連帯をかなぐり捨てようとも妻子を背負って一人で立ち上がらなければならないと決意しました。それは、私の50余年培ってきた自らの価値観と、これからの子どもたちの未来のために、傷つけられたままではいられないからです。民主主義の時計の針を後戻りさせるのではなく、前に進める司法判断を切に希望いたします。